『ダンケルク』

 第二次大戦の初期、ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍がフランスのダンケルクからの脱出を図る史実の映画化。
 ドイツが強かったこともあるだろうけど、フランスはあてにならないし、イギリスは逃げているばかりだし。アメリカが参戦しなければ、ヨーロッパはドイツに統一されていたんだろうなと思ってしまう。やっぱ、チャーチルがルーズベルトを戦争に引きずり込んだのも史実なんだろうな。
 監督は今やワーナー・ブラザースの第2のスタンリー・キューブリックと言われているクリストファー・ノーランである。あ、言われていると言っても、ボクが勝手に言っているだけ。採算度外視の超大作を、完全主義でじっくりと撮り上げるところがキューブリックっぽいと感じるのだ。もっとも、ノーランの場合はきっちりと興行的に成功させているし、完全主義のこだわりを見せながらも、2、3年の間隔で新作を仕上げる律義さがある。
 それにしても、この映画で意外だったのは、戦場にあまり血が流れなかったこと。撮影技術の向上した最近の戦争映画の特徴として、人間の身体が吹き飛んだり、粉々になったり、血で海が真っ赤になったりなんて描写が当たり前なのに、どうしたわけだかこの映画はあまり血しぶきが飛ばない。『プライベート・ライアン』がリアルなのか、『ダンケルク』がリアルなのか? それとも超大作が故にR指定を逃れるための妥協でもあったのか?
 キューブリックの『フルメタル・ジャケット』は、当時もっとも4文字言葉(FACK)が頻出する映画と言われたものだが、本作は言葉づかいも汚くなかった。まぁ、ベトナム戦争時のアメリカ兵と、第二次大戦のイギリス兵の違いもあるしね。簡単な比較はできないけど……。
 そのノーラン、デビュー2作目の『メメント』が話題になったのは、結末から事の起こりへと物語の進行を逆回転で見せる手法が新鮮だったから。考えてみれば、ノーランは時間軸をバラすのが好きな作家さんなのだ。
 本作『ダンケルク』もその系譜。
 『桟橋』シーンの1週間と、船の『海』シーンの1日と、戦闘機の『空』シーンの1時間を、交互に同時進行で描いていくという手法である。結果、終盤に向かうにつれ、それぞれのシーンが別の視点から重層的に描かれていく。
 脱出劇ゆえ時間に追われる緊迫感の演出か、ほぼ全編に音楽と効果音がベタづけになってしまった。音楽や効果音がないシーンにも秒針のようなカチコチが鳴りつづけた。だから、脱出に成功した兵士がホッとしたところで初めて音楽が止む。
 作曲はノーランのお気に入りでボクも大好きなハンス・ジマー。スタッカートで刻むような音楽が特徴の作家だから、この作品にはうってつけと言えるかも。
 なんか、作品の感想というよりも、演出の分析という感じになってしまった。
 物語よりも技巧が際立つ作品でした。
スポンサーサイト

『ワンダーウーマン』

 長くなりそうなので結論から書くが、この映画、非常に面白かった。気に入った。

 ワンダーウーマンと言えば、ボク世代からしてみれば、やはり初めて見たテレビシリーズの『空飛ぶ鉄腕美女ワンダーウーマン』の印象が強い。その彼女が、『バットマンVSスーパーマン』で再登場し、本作で一本立ちし、大ヒットした。日本では知らないが、少なくとも欧米ではヒットしているらしい。
 ワンダーウーマンが復活するまでには、実は紆余曲折があった。ボクが覚えているだけでも、テレビ企画や映画企画が2回くらい立ち消えになったと記憶している。テレビシリーズはパイロット版まで作られてポシャった。その時の理由がふるっていた。
「コスチュームに愛国心が足りない」
 というのがその理由だった。これがすべてではないだろうが、大きな理由の一つだったらしい。
 スーパーマンやスパイダーマンのコスチュームでもよく指摘されることだが、赤、青、黄色の配色はアメリカの国旗、すなわち星条旗をモチーフにしていると言われている。
 ましてや、原作のコミックや『空飛ぶ鉄腕美女』のコスチュームは、そのものズバリである。星条旗を元生地に切り貼りして作ったとしか思えないデザインになっている。さしずめ、強いアメリカの象徴と言ったところなのだろう。且つ、アメリカ人の理想が投影されているのだと思う。アメリカ人は常に強い祖国を求める気持ちを持ち続けているのだ。
 ワンダーウーマンのリブート企画がポシャったのは、はっきりとは覚えていないが3年以上前のことだ。少なくとも、ドナルド・トランプが「Make America Great Again」を訴えて大統領に選ばれるより遥か以前のことだったのは間違いない。フェイク・メディアはトランプを叩き続けたが、彼らが押しつけるポリティカル・コレクトネスに、アメリカ人は長年の間疲れ果てていたのだ。多くのアメリカ人がトランプを支持したのは、単に本音が噴出しただけのことだ。
 ところで、星条旗デザインのヒーローと言えばもう一人、むしろこちらのほうが老舗のキャラクターなのだが、キャプテン・アメリカがいる。言うまでもないが、ワンダーウーマンはDCコミック、キャプテン・アメリカはマーベル・コミックである。
 ちなみに、ワンダーウーマンの初出は1941年11月。キャプテン・アメリカはそれよりも少し早くて、同じ年の3月だ(共にウィキペディアによる)。どちらも第2次大戦が始まる直前である。教科書的には、その頃のアメリカは厭戦気分で参戦に気乗りじゃなかったと言われている時期だが、この二人のキャラクターを登場させた背景には、教科書に書かれていない、もしくは真逆の事実が隠されている気がしてくる。改めて勉強しなければならないという向学心が湧いてきてしまう。
 まぁ、それはさておき、実はボクは、この二人のキャラクターが大好きである。
 二人が他のヒーローたちと大きく違うのは、(ヒーローなので現実離れした超人的パワーを持ってはいるが)スーパーマンのような超絶怒涛の無敵パワーではないところだ。剣やピストルで攻撃されれば怪我をするし、下手をすれば殺されてしまうレベルであるところだ。にもかかわらず、相手を攻撃するような飛び道具は使わず、盾やブレスレットだけで専守防衛が基本なのだ。つまり、キャプテン・アメリカもワンダーウーマンも、自分よりも強大な敵を相手に不利な状態で戦っているのだ。
 そして何より、融通無碍なほどに正義や大義を重んじるところが素晴らしい。
 家族や仲間を思い、祖国を誇りとし、大義を感じないときは戦いを避け、大義があるときは自己をも犠牲にして戦うのである。
 その姿はまるで侍だ。
 刀を解決の手段としない山本周五郎の小説に出てくる侍のようなのだ。
 そう。ボクは、この二人にとても日本人的な心を感じてしまうのである。不思議なことに、アメリカの象徴である星条旗ルックの二人なのに、アメリカ人が理想としている姿であろうにもかかわらず、実はとても日本人的なのだ。
 つまり突き詰めると、アメリカ人が理想とする姿は日本人、しかも日本の侍なのである……と、少なくともボクは感じるのである。
 大東亜戦争で負けた日本軍は、負けたが故にナチスのような悪であったかのように貶められているが、歴史をきちんと勉強しなおせば、有色人種を搾取の対象としか考えていなかった白人たち欧米列強の帝国主義からアジア人を開放しようとしていたことはすぐに分かる。支那人や朝鮮人は勝ち組の白人にすぐに靡いた裏切り者だったこともすぐに分かる。
 アメリカ人が理想としているヒーロー像は日本人の侍であるとする説は、あまりにも我田引水が過ぎると思われるかもしれない。でも、ボクはいたって真剣にそう思っている。
 正しく歴史を勉強しなおせば、ボクの言っていることが、見当違いでないことに気づくはずだ。支那とロシアの独善と無責任ぶりが極まり、北の暴走が止まらず、南の空中分解が秒読み段階に入り、アジアの盲腸半島で第二次動乱が起こらんとしている現状を鑑みると、今こそ真の歴史修正が望まれる。
 歴史修正主義というとヒトラー礼賛のように捉えられるが、本来の意味は、戦争の顛末をしっかりと検証し反省するための学問だ。プロパガンダにまみれた記録を排除し、勝者の論理で書かれがちな記録を、文字通り正すことを目的に、第一次世界大戦後に起こった学問だ。その研究の成果として、ヴェルサイユ条約で一方的な悪役に仕立てられ、英仏から返済不可能なほどの賠償金を押しつけられたドイツに対し、いささかの同情を導き出すことになった。ところが折悪しく、借金まみれで疲弊したドイツは、その反動としてナチス・ヒトラーを台頭させていたため、『歴史修正主義=ヒトラー礼賛』のように扱われるようになってしまったのだ。

 なんか、ますます取り止めがなくなってきてしまった。
 閑話休題。
 とにかく、短くまとめると、
「本作は面白かった!」
 ということを伝えたい。
 圧倒的に強い戦争の神アレスを相手に戦うときも、自分が信じる理想だけを盾にしているワンダーウーマンの姿には、ついホロリとさせられてしまうほどだった。

『トランスフォーマー 最後の騎士王』

 まったく味のしない大量のパンを、飲み物もなく強引に口に押し込まれている感じ。もう満腹。シリーズを通して見てきたはずなのだが、なんかもう世界観がよく分からない。また、分からなくてもいいやと諦められる。
 ただ、一点だけ、良くなったことがある。
 それはアメリカ映画に戻ったことだ。前作は純粋なアメリカ映画ではなく支那との合作だった。至る所に支那企業の商品が写っていた。しかし、去年あたりから支那は外貨の枯渇を隠しきれなくなり、今ではすっかり外国企業の買収も減った。
 支那の影響が減ったことを証明するかのように、本作の戦闘シーンではオスプレーが活躍する。
 言うまでもないが、オスプレーと言えば日本のマスコミによって、すぐに墜落する欠陥ヘリとの風評をたてられたあのヘリだ。もちろん、これは、朝日新聞をはじめとするMSM(メイン・ストリーム・メディア)お得意のフェイク・ニュースである。オスプレーはアメリカでは実戦配備され、多くの実績を上げている。だからこそ、オスプレイが沖縄に配備されると困るので、支那ベッタリの朝日新聞をはじめとするMSMがオスプレー配備に反対しているのだ。南朝鮮にサード(高高度迎撃ミサイル)を配備するのに支那が反対しているのと同じ構図だ。

『グレートウォール』

 3D上映のみだったし、支那のプロパガンダ作品ということも分かっていたので、観に行くのやめようかなと思っていたが、近所にできた映画館が導入したD-BOXなる新しい施設を体験してみようと思って観に行った。D-BOXというのは、3Dの上を行く4Dを体験できるというのが売りで、映画に合わせて椅子が揺れたり傾いたりするやつだ。
 結論から言うと、D-BOXは鬱陶しいだけ。四六時中座席を後ろから蹴られているみたいで、不快感ばかり。ま、予測していたことではあるが。
 で、作品自体も退屈だった。ま、これも予測していたし、承知の上ではあったが。
 監督はチャン・イーモウ。『初恋のきた道』で好きになった監督だけど、しょせんは『紅いコーリャン』なんだよな……。
 かく言う自分も10年くらい前までは『紅いコーリャン』をそれなりに評価していたんだけど、近現代史の勉強をするようになり、本当の歴史に目覚めて以降は、中国の歴史映画はUSF(Unscientific Fiction 非科学空想)映画だということを知るようになった。『紅いコーリャン』も、単なるトンデモ映画であることを思い知らされた。あれだけ好きだった『初恋のきた道』も、改めて観る気力が湧いてこない。
 ことほど左様に自分の間違いを認めることは難しい。苦しい作業だ。己の間違いを認めるということは、それ以前の自分の言動をすべて否定することにつながりかねない。そうすると、天地がひっくり返るような価値観の大転換が起こるし、起こさなければならない。それができないから、朝日新聞は、いつまで経っても嘘と知りながら嘘をつき続けているのだ。嘘をつき続けなければならない無限ループに陥っているのである。
 官僚や二つのホウソウ関係(法曹関係と放送関係)は、よく『無謬性』が指摘される。無謬性、つまり『絶対に間違いを犯さない』ことになっている。何を根拠としているのかは全く不明だが、実は単純明快な理由がある。それは、間違いを認めてしまうと、過去に遡って訂正を入れなければならなくなり、それは大変な作業になる。謝罪をしようにも謝罪する相手や量が多すぎて収拾がつかなくなるのが関の山。下手をしたら、会社や組織がお取り潰しにされかねない。だったら、取り返しのつかないような間違いは、どうせ取り返しがつかないんだから、そのまま放っておけというわけだ。朝日新聞がいつまでたっても朝日新聞なのはそのためだ。

 まぁ、朝日新聞はともかく……、
 ボクの中で、この数年間で、チャン・イーモウほど革命的に印象や評価が変わってしまった映画監督はいない。事もあろうに前作は、クリスチャン・ベールを主演に迎えて製作された南京虐殺映画だ。日本軍が人口20万人の南京市を攻撃し、その際40万人の支那人を虐殺したとされる『史実』の映画化作品だ。まさに支那が得意とするUSFの面目躍如だ。
 『手先の器用なプロパガンダ職人』
 今のボクは、こんなふうにしかチャン・イーモウのことを見ることができないし、本作もその程度の出来だった。
 ただ、少し見方を変えると面白くなる部分もあった。というのは……、
「支那人は、万里の長城以北の外敵をあんなふうに見ていたんだなぁ」
 ということ。
 言うまでもなく、万里の長城とは、秦の始皇帝の時代に作られた(完成は明の時代らしい)防壁のことで、外敵の侵入を防ぐ目的で作られた。つまり、万里の長城より北に位置する満州や内モンゴル地区は支那の核心的領土であったとは言えないわけなのだが、まぁ、それはともかく、支那人は外敵を化け物のように恐れていたんだなぁということ。もはや人でも獣でもなく化け物なのだ。意外とというか、ボクは歴史を勉強したので意外でも何でもないのだが、支那人というのは臆病な連中であるということが知れる。
 これは単なるボクの推測なのだが、支那人の残虐性は臆病の裏返しなのではないかと思っている。殺すべき敵は、絶対に仕返しをされないように徹底的に破壊しないと安心できないのだ。そのために、その親族や縁者が裸足で逃げ出すほどに、残虐に切り刻み、ハラワタをえぐり、肉をこそげ落とし、串刺しにするのではないかと思うのだ。殺した相手を食べてしまう習慣が今なお残っているという話だが、これなどはその典型だと思う。敵を噛み砕き消化し排泄してしまうのだ。これ以上ないほど確実で完璧な破壊ではないか。
 不思議だなぁと思う箇所も多々あった。特に顕著なのは、支那の女将軍が語る国家観というか価値観だ。
 マット・デイモン演じる盗賊が、「戦う目的は金のため」だと言うのに対し、女将軍は「皇帝や軍の仲間、更には国家の同朋のために戦うことが誇りだ」と言うのだ。勧善懲悪のハリウッド映画であれば、まぁ、まっとうなテーマではある。だが、これは支那のプロパガンダ映画だ。いやはや何とも、本音と建前がここまできれいサッパリ入れ替わっていると、逆に清々しいほどだった。
 それにしても、共産党宣伝部としては、この映画を国威発揚のために作っているんだろうけど、これを見る人民諸君は女将軍とマット・デイモンのやり取りをどう思って観るんだろう? 聞くんだろう? ジニ係数0.61の支那において、このセリフに感動する支那人民は、果たして存在しえるのだろうか? 実際、この映画は中国共産党のプロパガンダや国威発揚として成立しているんだろうか? 本当に不思議なシーンだった。
※ジニ係数とは、貧富の格差を示す0~1までの数字。通常、0.4を超えると社会騒乱が起こるとされる。日本は0.329、アメリカは0.378。

『ムーンライト』

 黒人、貧困、ドラッグ、そしてゲイ。
 トランプ批判に終始した今年のアカデミー賞会員たちが大喜びしそうなPC(ポリティカル・コレクトネス)のテーマがてんこ盛りにされた作品。トランプが大統領に当選していなければ、果たしてこれが作品賞を受賞しただろうか。
 個人的にはゲイやレズを差別してはいない。それはただ単に性的嗜好の問題なんだから、ボクの生活に関係ない範囲でならどうぞお好きにお好きなだけというだけのこと。それを、マイノリティ(少数派)であることをまるで錦の御旗ででもあるかのように振りかざして権利主張をされると辟易させられる……という程度の認識だ。
 黒人、貧困、ドラッグまでならこれまでにもたくさんあったテーマだが、これにゲイまで絡ませたという点で頭一歩目立てたということか? ま、いずれにせよ、トランプさんには感謝すべきアカデミー作品賞受賞作品だ。

【以下、プロットを結末まで】
 主人公シャロンが子どもから大人になるまでを3部構成で描く。
 第1部はリトルと呼ばれた少年時代。母親がヤク中の娼婦ということもあり、苛められっこのシャロンを麻薬の売人フアンが妙に可愛がってくれる。だが、母親がフアンからヤクを買っていることを知り、二人の関係が壊れる。
 第2部は高校時代。理由は明確にされないが、フアンは死んでいる。このころになるとシャロンのゲイが周知のところとなり、いじめがひどくなる。そんなシャロンとゲイでつながる親友ケヴィンができる。二人は月明かりの海岸でお互いのナニをナニし合う。ところが、高校のいじめっ子はケヴィンを使ってシャロンをぶちのめす。切れたシャロンはいじめっ子を椅子でぶん殴って刑務所送りになる。
 第3部。成人になったシャロンが麻薬の売人としてのし上がっている。刑務所で仲間が出来、組織の中でのし上がったのだ。そんなある夜、ケヴィンから電話が入る。ケヴィンは料理人になっていて、シャロンが会いに行くと、離婚した妻との間に娘がいることを知る。ケヴィンは高校時代のことを謝り、シャロンは売人になったことを打ち明ける。シャロンは、自分のナニを触ったのは君だけだなんて告白をし、二人は再び結ばれる。

 まぁ、ざっくりまとめると、こんなお話でした。フアンが死んだ理由が最後まで明かされなかったが、たとえば……、
 フアンは、シャロンへの愛情から麻薬取引から足を洗おうとするが、裏切り者として殺された。大人になったシャロンも、ケヴィンへの愛から足を洗おうとし、やっぱり殺されてしまう。
 ……なんてストーリー展開を予測しながらボクは見ていました。
プロフィール

辰之介

Author:辰之介
映画ファン歴40年。
映画やドラマを観る日本人の審美眼を真剣に憂える。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる