日本の首都なんだから東京の知事様はエライのだ!

 言わずもがなだが、今の皇居がある場所は江戸城があった場所である。その跡地に江戸城の天守閣がないのは、大政奉還を受けて取りつぶされたわけでもなく、第二次大戦(正しくは大東亜戦争)の空襲で焼けたからでもない。
 江戸城は1657年(明暦3年)、『振袖火事』とも呼ばれる『明暦の大火』で本丸も天守閣も焼け落ちた。
 時の幕府は4代家綱が将軍で、『知恵伊豆』と称された松平信綱が老中を務めていた。信綱は、江戸の被災民を救うため備蓄米を放出したり、米などの価格統制を進めた。また、信綱は合議制を無視して独断で参勤交代を取りやめた。これも言わずもがなだが、参勤交代は地方大名に蓄財させないよう無駄遣いを強制する制度だからである。
 更には江戸城の再建も行わなかった。以降2百年を超える江戸の治世に城はなかった。そもそも諸国の大名に競わせ『天下普請』で建てた江戸城だったが、「もはや天下は泰平である」として、天守閣は必要ないとしたのである。戦国時代の終わりを大坂夏の陣(1615)とすれば約40年後、島原の乱(1637〜1638)とすれば約20年後のことである。

 江戸時代は歴史的区分で言うと封建時代となるらしい。
 しかし、ひとくちに『封建制度』と言ってしまうからおかしくなるのだ。日本の封建制度は中世ヨーロッパ型(白人型)のそれとは種類が違う。木造と石造りの違いは勿論あるが、だからと言って、ヨーロッパの封建領主が焼け落ちた城をそのままにするだろうか? 幕末に日本を訪れたヨーロッパ人が驚いたように、日本人は殿様も庶民も同じものを食べる。鯛とサンマで種類の差はあっても、同じ魚を食べる。いや、庶民だって鯛を食べることはあるし、殿様だって落語でなくてもサンマは食べる。良くも悪くもポピュリズムと言えるのかもしれないが、殿様はものすごく庶民の支持率を気にする。大義名分という体面も大事にする。勿論、日本にも搾取するだけの白人型の殿様もいた。しかし、基本的に領民に寄り添うのが日本の殿様だ。日本の領主は領民に対して範を示すことを求められる。殿様が倹約令を出せば殿様も倹約する。それが日本型のリーダーだ。
 そもそも、有史以来奴隷を活用してきたヨーロッパと、まったく奴隷を持たなかった日本とを一緒くたにすることに無理があるのだ。これは、共産主義の考え方で分類された時代区分に無理やり当てはめられただけのことである。そもそもキリスト教が言う人間の平等は『白人』限定の平等だ。詳しく言えば、『白人で、男で、しかも金持ち』限定の平等だ。黒人や黄色人種は平等の対象外だから、端から下等な生きものとして扱われる。ヨーロッパの領主様が、特権階級の特権をフルに活用(濫用)し、贅の限りを尽くしまくることが出来るのはこのためだ。女性の権利を主張する人権派気取りの人たちは、日本を男性優位社会と非難するが、一体何を見て言っているのか。日本ほど平等な国はないのだ。
 ところで、白人ではないが、日本人と同じ黄色人種だが、支那の君主は白人型だ。朝鮮は支那の劣化コピーだから、朝鮮も白人型だ。皇帝や両班といった特権階級の君主が庶民を食い物にして人間扱いしない。
 さて、前置きが長くなったが、今の東京都知事である。具体的に名前を挙げると舛添要一だ。
 桝添要一と言えば、就任間もなく南朝鮮に行ったとき、2020年の東京オリンピックを日韓共催にしても良いなどと言ってお嬢様大統領のご機嫌を取ろうとした人物だ。東京都民の9割は韓国が好きとも宣ったらしい。東京都民を1300万人とすると、自分一人で1億1700万人分の権限や票を持っていることになる。そりゃ、特権意識も半端ないだろう。東京大学法学部政治学科を首席で卒業したとか言ってるし、東大閥の官僚が一人の漏れなく持っている選民意識の塊でもあるのだろう。そりゃぁ、公費でファーストクラスに乗って、高級ホテルのスイートに泊まって、公用車で別荘に通うのなんか当たり前中の当たり前ですよ。何しろ、彼が言うとおり、東京都知事と言えば泣く子も黙る『トップ・リーダー』なんだから。そんな彼に日本型の美しいリーダー像を求めるのがおかしい。彼は、支那を宗主国と仰いでいる朝鮮を宗主国に仰ぐ、皇帝志向、両班志向のリーダーなのだ。桝添を非難するのは間違いだ。桝添は悪くない。桝添を選んだ東京都民が悪いのだ。悪いのは東京都民だ。けっ!
スポンサーサイト

不謹慎狩り

 『不謹慎狩り』が流行っているとのこと。
 インターネットという発信手段を手にした無辜の一般大衆の悲鳴とでも言いたいのか。政治家や文化人はもちろん、歌手やタレント、お笑い芸人もターゲットに、企業などの団体に至るまで、熊本地震に関して『不謹慎』な発言をしていないか、熊本地震で大変なときに『不謹慎』なことを言っていないかと、ネット住人が鵜の目鷹の目で監視している。『不謹慎』と思われる標的を見つけたら、第一発見者が『不謹慎』の認定を下し、即さま『拡散』され、日本人全員の総意、もしくは共通認識とされてしまう。
 もちろん、彼らの最大の標的は、テレビや新聞などのマスコミだ。しかし、愚かしいことに、不謹慎狩りの成果はテレビや新聞の報道で更なるお墨付きを得て、相乗効果で拡散される。
 質が悪いのは、彼らの決めた『不謹慎』に従わないヤツは、まさしく不謹慎極まりない人非人で、市民権も発言権も取り上げられることだ。『自己批判』を強要される。
 そう。まさしく自己批判だ。皆がみんなを監視して、気に食わない人を批判対象にして権威や人望を失墜させる。まるで今、日本で文化大革命が起きているみたいだ。
 そもそも、不謹慎を指摘する連中が、本当に熊本地震の被災者の気持ちを忖度しているのだろうかと疑問に思う。いや、断言させてもらうが、奴らは熊本地震を利用して己の不平や不満をぶつけているだけだ。誰からも注目してもらえない己の不満を、マスコミや人気のタレントにぶつけて溜飲を下げているだけだ。
 こんな連中の『バカの戯言』を、視聴者からの『貴重なご意見』でございと取り上げるテレビなどのマスコミもだらしない。一喝してやるか、無視してやればいい。相手にするからつけあがるのだ。
 かつての番組プロデューサーは、
「飯どきに下品な番組を放送するな」
 という視聴者からの苦情に対し、
「食事しながらテレビなんか見るな」
 と怒鳴り返したらしい。この対応が正解だ。バカにはバカへの対処法がある。『貴重なご意見』と『バカの戯言』をいっしょくたに扱ってはいけない。こんなことをしていると、まともな『貴重なご意見』が掬われることなく流されてしまう。
 より広い聴衆を取り込むためには、対象とする聴衆の最低レベルの知的レベルに合わせなければならないとは、ヒトラーの著作『我が闘争』に書かれている言葉だが、ネット住民の戯言に右往左往させられている今のマスコミがやっていることは、その実践を目指しているとしか思えない。
 日本人はただでさえポピュリズムに流されがちな国民性がある。第二次大戦(正しくは大東亜戦争)の時もそうだが、軍部の暴走ではなく、世論の暴走によって日本は戦争に巻き込まれたのだ。支那みたいに情報統制されているわけではないんだから、今はもう『朝日新聞』をのぞいてGHQのプレスコードに縛られているわけではないんだから、日本人はそろそろ本気で本当の歴史を学ばなければいけない。さもないと、誤報と捏造と反日が社是の『朝日新聞』なんぞの誤った情報に扇動されて、またぞろ日本は戦禍に巻き込まれてしまうことになる。

聖火リレー

 紆余曲折を経て、昨日2020年の東京オリンピックのエンブレムが決まった。
 で、ふと思った。
 オリンピックの聖火リレーは、あのアドルフ・ヒトラーが始めた。宣伝相ゲッペルスの発案だったのか、詳しいことまでは知らないが、ともかく1936年のベルリン・オリンピックから始まった。そのヒトラー率いるナチス・ドイツは1945年に消滅。聖火リレーから9年後だ。
 で、計算してみた。2008年の9年後は2017年。来年だ。うん。いい感じ。

レヴェナント 蘇えりし者

 レオナルド・ディカプリオが念願のアカデミー賞を受賞したことで大々的に宣伝されている作品だ。
 とは言え、この作品の主演はレオ様でない方が良かった。瀕死の重傷を負いながら食うや食わずで雪の山中を何週間も彷徨う男を演じているはずなのに、どうにもこうにもレオ様の身体はパーティぶくれしているのだ。クリスチャン・ベイルだったら喜んで10kgでも20kgでも30kgでも減量して撮影に臨むだろうに、なんだかなぁなのだ。『アビエイター』の時も同じ感想を持ったものだが、ホントに変わらない御仁である。
 レオ様を襲うグリズリーはどうせフルCGなんだろうし、CGでほぼ何でもできちゃうんだから、レオ様の身体もCGで痩せさせちゃえばよかったのにと思うのだが、それをしなかったのはもしかして監督の意地悪だったのか? 監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。メキシコ人である。対するディカプリオはイタリア系(母はドイツ人)である。ついつい変な深読みをしてしまった。というのも……、
 物語の舞台は西部開拓時代のアメリカで、探検隊のガイドとなった実在のハンターがモデルになっているのだが、冒頭はその探検隊がインディアンに襲われるシーンから始まるのである。あれ? 今時珍しくインディアンが未開人の悪者に描かれる作品なのかと思ってしまうのだが、さにあらず。探検隊と言ってもシカなどの皮を獲って荒稼ぎもしていて、白人がインディアンを虐殺しまくる描写も激しくちりばめられている。何しろ、監督の同朋メキシコ人はインディアンと同様に未開人の扱いをされ、虐殺された側の人だ。メキシコ人を虐殺したのは主にスペイン人だが、スペイン人をアメリカ大陸に連れてきたのはイタリア人のクリストファー・コロンブスである。ボクが深読みしてしまった理由はここにある。
 ちなみに、現在は、インディアンをネイティブ・アメリカンと呼ぶのは、逆に差別なのだそうだ。インディアンを根絶やしにした白人たちが、その呼び名を言い換えることで自分たちの犯した罪を覆い隠している、つまり歴史修正主義としてとらえられているらしい。コロンブスも最近はあまり英雄扱いではないとのこと。5百年くらいを経て、ようやく反省の兆しが見えてきたアメリカ人ではある。大東亜戦争で犯した罪に気付いてくれるには、まだまだ数百年も待たねばならないのだろう。

 とまぁ、これもいろいろと書いてしまったが、2時間半超えの長尺だが、それを感じさせない作品である。殺し殺され、追いつ追われつの連続で、しかも痛い。すごく痛い描写の連続で、とても疲れはするのだが、退屈はしない。レオ様ももうそろそろ殺されちゃったほうが楽じゃんかと思って観てしまうのだが、笑っちゃうくらいしぶとく生き延びるのが凄くて快感なのだ。
 撮影が良い。2013年『ゼロ・グラビティ』、2014年『バードマン あるいは(無知がもたらす奇跡)』、そして2015年の本作で、3年連続アカデミー撮影賞を受賞したエマニュエル・ルベツキである。一定の柔らかい明るさというか暗さの中で、視写界深度を浅くしたり、奥ピンまできっちり合わせたりを変幻自在に使い分けている。フィルムでしかできなかったことなのか、ビデオになったからできるようになったことなのか、技術的な詳しいことはさっぱりわからないが、とにかくすごい。風景だけの撮影もすごい。エンド・クレジットは根気よく見られなかったが、B班など使わずに、自分で撮影したんだろうか?

 最後にもう一つちなみに、ボクが観に行ったシネコンでは、公開初日こそ一日早い金曜日だったから大きなスクリーンで見られたが、翌日の土曜日からは、大きなスクリーンは『ズートピア』と『名探偵コナン』『遊戯王』に独占され、小さなスクリーンに押しやられていた。来週末の大スクリーンはテレビ局の放送外収入『テラフォーマーズ』とか『ちはやふる』が占拠するんだろうな。『キャプテン・アメリカ』はどこで観ればいいんだっ! 日本映画、死ね!

ズートピア

 肉食獣も草食獣も仲良く一緒に暮らす動物たちのユートピア社会『ズートピア』を舞台に、ウサギ初の警官になったホップスと詐欺師のキツネがバディを組み、街に潜む失踪事件の解決に活躍する物語。
 全てが平等と理想を謳いながら、人口の1割でしかない肉食獣が支配層で、大多数の9割を占める草食獣は下層の一般大衆という格差構造になっている。ただし、草食獣の中でも、ゾウやサイ、バッファローのような身体の大きな草食獣は支配層の仲間になっている。また、肉食獣の中でもキツネだけは生来のウソつきだからと差別を受けている……という構造が、人間の現実社会を写していて奥が深いと評判の作品だ。
 黒とか白とか、アジア系とかヒスパニック系で読み取るのはおそらく無理だろう。やはり、経済的な格差社会の縮図になっていると見るのが正しそうだ。さしずめ、キツネがユダヤ人と読み取れば、おおよその解釈に辻褄が合うと思う。貧困層のウサギでも、夢は叶うという、ディズニーがしつこくしつこむ持ち上げるテーマの作品である。
 ところで、このズートピアには、サルなどの霊長類が住んでいない。サルは雑食で分類できなかったから……というよりも、人間社会への比喩がより露骨になってしまうから描けなかったのだろう。そもそも、ズートピアにサルを入れると、ディズニー映画がフォックス(キツネ)映画の『猿の惑星』に変わってしまうしね。老婆心ながら付け加えると、太平洋戦争(正しくは大東亜戦争)時に日本軍の捕虜になったフランス人ピエール・ブールが、日本人をサルに見立てて書いたSF小説を原作にしたのがが『猿の惑星』という意味で言っている。

 まぁ、色々と書いたが、難しいことを考えなければ、黒幕探しの犯罪モノとしてなかなか楽しめる作品に仕上がっている。吹き替え版の上映しかなかったのでネットのオリジナル予告編でオリジナル・キャストの声を確認したが、ビト・コルリオーネのパロディーは子どもに理解できる範囲ではなかっただろう。
 あ、あと上戸彩が主人公の声を当てていた。またパブリシティ稼ぎの話題作りキャスティングかと心配したが、悪くなかった。『アベンジャーズ』のような実写映画では散々なことをやってくれるディズニーだが、本家アニメ作品だけはキチンと考えたキャスティングをしてくれている。

スポットライト 世紀のスクープ

☆ (一見の価値はあると思う。何と言っても作品賞だしね。)

 カソリック教会が子どもに性的虐待をしていたスクープを記事にした新聞記者たちの物語。ボストン・グローブ紙の特集記事欄『スポットライト』のチームが実際にピューリッツァ賞を受賞した事実を基に描かれている。ドキュメンタリー・タッチの作品だからと安易に手持ちカメラを多用するのではなく、三脚に据えたカメラでしっかり撮っているところにも好感が持てる。本年のアカデミー作品賞を受賞作した力作である。

 去年9月、支那の集金兵(習近平)が訪米しても米国内で全くニュースにならなかったのは、これまで大切に育ててあげた飼い犬が恩を忘れて噛みつきだしたことへのお仕置きの意味もあるが、同時期に訪米していたローマ法王のニュースが最優先だったことも大きい。それだけ米国では、今なおカソリック教会の人気は絶大なのだ。そして、大いなる人気には大いなる権力も伴い、しかも絶大なのである。そんな巨大権力に抗い、教会の悪事を暴いたと言う意味で、報道マンとしてのあるべき姿が描かれている……と思って観に行った。
 ところが、なんか違和感がある。
 というのも、教会による児童への性的虐待は、スポットライトの記事が初出ではないのだ。既に既報なのだ。馬から落馬みたいに書いてしまったが、既に十年以上も前から伝えられ、記事にもなっていた事件なのである。スポットライトがスクープしたのは、その手の性的虐待は日常的で、やたらと事案が多くて、しかも組織的に隠ぺいされていたという部分なのである。つまり、児童虐待の神父は、しばらくの謹慎ののち、教区を替えて神父をつづけ、更なる児童虐待をつづけていたのである。で、それを訴える被害者団体がすでにあり、ボストン・グローブ紙も、そんな彼らの声や訴えを聞いていながら無視していたのである。児童虐待には過敏なはずだと思うのだが、相手がカソリック教会だと、そのへんも甘くなるのか? なんともかんとも腑に落ちず、困惑からくる混乱で集中できなかった部分もあるが、居眠りはしなかったので大筋は捉え違えていないはずなのだが……。新任の編集長からこの取材は始まるのだが、彼がユダヤ系という設定にも深い意味があったのか? 宗教がらみはよくわからないので、久しぶりにパンフレットを購入した。今度じっくり読んでみようと思う。
 そういえば、カソリックとプロテスタントの違いを説いた『モンティ・パイソン/人生狂騒曲(The Meaning of Life)』を思い出した。モンティ・パイソン曰く、「性交の際、コンドームをつけてはいけないのがカソリックで、つけて良いのがプロテスタントだ」と言う。この戒律のおかげでカソリックは子だくさんで、信者数の維持が行われているとのこと。さすが我らのモンティ・パイソン。鋭い分析力である。この戒律のおかげで、カソリックの神父様たちは性欲のはけ口も維持されていたことが分かる。

 色々と書いたが、カソリック文化の分かり得ない部分もあるが、この映画で描かれている『調査報道』の手法や記者の姿勢は一見に値する。被害者の言い分を足で取材して裏付けを取り、法廷証言などで更なる検証と証拠集めをし、且つまた加害者側の言い分も取り上げる。そんな『調査報道』の姿は、記者クラブを通した記者会見での発表記事の要約作業を『取材』と言い、嘘しか言わない支那人や朝鮮人の言い分だけを筆記して何らの検証も行わないことを『特ダネ』と言う朝日新聞の記者たちは特に必見である。


『中国(チャイナ)4.0』

 著者のエドワード・ルトワック氏は、戦略評論家というだけあって面白い分析だった。
 大国は小国に敵わないという『逆説的戦略論(パラドキシカル・ロジック)』で有名とのこと。ざっと言えば、「大国が小国を攻撃しようとすると、周辺諸国が小国に加担するので、結果的に孤立した大国が負けてしまう」という理論。まさに今の支那がこの状態にあると言うのだ。
 著者は、建国から今に至るまでの中国(中華人民共和国)の国家戦略の変遷を「1.0」から「3.0」で区分けする。建国、すなわち第二次大戦以降の「平和的台頭」期を「1.0」とする。アメリカや日本を始め世界からの援助を受けて発展してきた「良い子」の中国がこれに当たる。しかし、リーマンショック後、世界の経済構造が変わり『世界の工場』として注目を集め出すと、「金は力なり(Money talks)」を信条に、力で世界秩序を破壊し始める。これが「悪い子」の中国で、「2.0」になる。しかし、中国が『世界の工場』と言っても、しょせんは『組み立て工場』である。中国が傲慢になればなるほど「経済力」と「国力」の乖離が目立ち始め、ついには経済の低迷が隠しようもなく露見し始めた去年(2015年)あたりからが「3.0」。譲歩とか後退はしないまでも、力攻めを少しトーン・ダウンしてきた状態である。ドブにはまって動けなくなったジャイアン状態だ。
 先日読んだ『中国2015』もそうだったが、パンダ・ハガー(親中派)だった米国人の多くが、ようやく中国の『韜光養晦(とうこうようかい)』に気付いてくれたようだ。まぁ、どちらの著者も、太平洋戦争(正しくは大東亜戦争)中の支那を、「大日本帝国からの侵略と戦い、共産主義を理想に新しい国家づくりに励んでいた」みたいな錯誤を残しているのは御愛敬だが……。
 そして、タイトルにある「4.0」だが、これはこれからの中国に対する著者からの提言で、スプラトリー諸島からの撤退や中国の民主化が唯一の解決策としている。もちろん、それがあり得ないと言うか不可能であることを著者は承知している。だから、ドン詰まりでトっ散らかった中国が不測の行動に出たときに日本がどうすべきかという提言で締めくくられている。
 たとえば、中国が尖閣に乗り込んできたとき、日本は躊躇なくこれに自力で対処せねばならないとしている。日米安保で保障されているアメリカの援助は、本土への攻撃の場合であり、人の住まない離島の領土問題は安保の対象外である。故に、それが出来るための「ソフト」作り、すなわち法整備や世論形成が必要だ、としている。
 至極ご尤もで、耳が痛い。まったくもってその通りです。
 ボクにとってはそれほどの真新しさはなかったが、戦勝国アメリカの論理が鼻につく部分もあったが、戦略論という視点からの分析は読みやすく楽しめた。

バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生

☆  (まぁ、派手だから楽しめるかな)

 一言でいえばやり過ぎである。
 『スーパーマン』シリーズのリブートのリブートとなる前作『マン・オブ・スティール』でも強く感じたことだが、スーパーマンのスーパー・パワーがスーパーすぎて、NY級の1千万人都市があまりにもあっさりと更地になってしまうのだ。その前作に続き、本作も同様の「やっちまったなぁ!」感が強い。CGを使った特撮が発達しすぎてしまい、どんなスペクタクルも映像化できるようになったのはいいが、安易に町を破壊しすぎである。描写された画面はリアルだが、まったく実感が伴わない。技術の進歩は素晴らしいが、技術的に出来ることとやって良いことはイコールじゃないと言うことですね、アインシュタインさん。
 そういえば、近々、リメークされた『ベン・ハー』が公開される。既に予告編をネットで見た。奴隷船のシーンや戦車競走のシーンがきっちりと描かれていた。しかも、かつての撮影技術では出来なかったアングルやカメラ・ワークで。これは、是なのだろうか、非なのだろうか。もう分からなくなってきた。

 本作に戻る。
 滑り出しは良かった。前作のクライマックスを、街の中を車で疾走するブルース・ウェイン(ベン・アフレック)の視線で描き直していたのだ。都市が破壊されるスペクタクル・シーンが、(もちろん意図的であろうが)911テロを彷彿とさせるリアルさで迫ってきた。カメラの目線を人が立っている目の高さに下した効果だ。
 ところが、このオープニング・シーンからして、徐々におかしな方向にねじ曲がっていくのである。スーパーマンの戦いで破壊されていく建物に残された人々や、瓦礫が降ってくる街なかに取り残された少女などが描かれていくのである。ある意味、リアルを求めた描写かもしれないが、それはこの手のヒーロー映画やドラマで触れてはいけない描写である。そこに踏み込んでしまうと逃げ場がない。唯一の解決策はコメディにすることである。事実、ピクサー健在なりし頃の名作『ミスター・インクレディブル』はその成功例だ。そういえば、第1作の『アベンジャーズ』公開後に、映画がリアルだった場合の被害総額は○兆ドルになるとかいう試算が発表されたが、もちろん、これは保険会社のジョークである。近々、そんな保険会社を舞台にしたアメコミのスピンオフ・ドラマが製作されると言う記事を読んだが、やはりそれもコメディーである。
 ところが、この映画は、この問題に真っ向正面からリアルに取り組んでしまった。戦いに巻き込まれて死んでしまった人の中に、ブルース・ウェインの会社の従業員や幹部もいたりして、復讐心に取り憑かれたバットマンとスーパーマンの戦いが、笑いひとつない陰鬱な雰囲気の中で描かれることになった。更に、(これも意図的でだろうが)IS的な自爆テロまで盛り込み、いよいよ暗い方向に落ち込んでいくばかりの展開である。ほとほと逃げ道がないなぁ……。スーパーマンに対抗するために着込んだバットマンのモビルスーツは、アイアンマンのマーク1そっくりだったし。なんか、全体的にチグハグ。

 この映画の構図を近現代の世界情勢に譬えてみることはできないかと思った。スーパーマンは驚異の軍事力を持つにいたった支那&北朝鮮連合で、これにクリプトナイトという核兵器で対抗するアメリカのバットマン……。うぅむ、しっくりこないなぁ。
 ただ、二人をたきつけて漁夫の利を得ようとするコミンテルン的な立ち位置にいたレックス・ルーサー役のジェシー・アイゼンバーグは好演だった。

『日本が中国の属国にさせられる日』

 支那は好きになれない。はっきり言えば嫌いである。だが、感情的なヘイト・スピーチも嫌いなので常に冷徹な分析力を保つよう努めている……つもりだ。それでこの本を手に取った。昨今の支那の目に余る言動のせいで、図らずも感情に流されてしまいそうな己を冷静に見つめ直したい思いもあった。本屋で少し立ち読みをして慎重に購入した……はずだった。が、またしても失敗した。
 この本の著者、副島隆彦氏は口が達者だ。
「ロスケ、チャンコロ問題に本気で立ち向かう」
 などという表題で支那嫌いの人たちの関心を買い、
「中曽根やナベツネを指導したキッシンジャーは中国の手先だった」
 などと支那嫌いの仲間であるかのように装い、
 支那嫌いの人たちが、希望的観測で支那の経済崩壊を予測していることを承知の上で、
「10年前から中国経済が崩壊すると言っていた人たちの予言は当たっていない」
 と挑発した上で、
「自分は右でも左でもなく、中道などとカマトトぶったことは言わない」
 などと、一人冷徹な目で分析している風を装い、
「自分の意見が意に沿わないからと、この本を投げ捨てますか?」
 などと、自分の意見を押しこんでくるのである。
 まるで慣れた詐欺師の手口だ。
 ネットで調べてみたら、株の悪徳ブローカーみたいな人物だった。他の著作に対するアマゾンのカスタマーレビューを読むと、この人の言を信じて損をしたとか、そんな恨みつらみがたくさん載っていた。消費税含めて1620円。まぁ、株で騙された人と比べれば被害が少なくて済んだと自分を納得させよう。

 結局、途中からは飛ばし読みをしてしまったので、正確な論評は出来ないが(する気もないが)、明らかにおかしいのは、副島氏の言う『日本が中国の属国にさせられる』のは、支那の経済成長が今後も順調に続くという前提の上に立っていると言うことだ。減速したとはいえ今年度もGDPが7%の成長をするという支那の発表を、まるっぽ鵜呑みにしているところが痛すぎる。
 王コネイとかいう共産党幹部が言った、
「中国は余剰生産を減らす必要がない。過剰生産、過剰在庫の問題は解決できる」
 などという出鱈目な話を引用し、どうやらこの与太を信じているようなのだ。実に痛い。
 わざと難しい経済用語を羅列して難解な理論や知識を開陳されている項が少なからずあるが、この部分をもってして、もはや副島氏に経済を語る資格はないと断じたい。副島隆彦とは、中国共産党万々歳の共産党員ではあるまいかと思ってしまう。少なくとも走狗だ。もしかしたら朝日新聞の現役社員かもしれない。
 東京裁判を金科玉条としているんだろうなぁ、この手の人は。一応最後まで拾い読みした限りでは、副島氏によると『支那事変』は日本軍の仕業で、『南京大虐殺』も史実らしい。『大躍進政策』や『文化大革命』が大失敗に終わったことは認識しているようだが、当初は毛沢東が理想に燃えて始めた革命だったなどと言ってしまっている体たらくだ。日本が一切絡んでいないような支那の失策はロシアが悪いことになっているし、何がなんでも支那様万歳なのだ。

『素晴らしい中国人が共産主義と日本軍の手によって誤った道を進んでしまった。しかし、毛沢東の時代には少なからずの執政もあったが、今や習近平という素晴らしい指導者を得て、日本はおろかアメリカも追い落とし、再び世界に中華の花を開かせるだろう』

 というのが、この本の趣旨だ……ろうと思う。中国や北朝鮮の共産主義に未だに幻想を見ている不思議な本でした。
プロフィール

辰之介

Author:辰之介
映画ファン歴40年。
映画やドラマを観る日本人の審美眼を真剣に憂える。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる