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『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

 魔法を超能力ととらえると、『ハリー・ポッター』を『Xメン』にしたようなお話。
 魔法の存在が知られると、魔法使いが人間から迫害される。だから魔法を統制且つ隠して人間との調和を図ろうとする派と、迫害される前に真正面から人間と戦おうとする派と、魔法使いたちが二手に分かれて戦おうという物語である。本家マーベルでは『アベンジャーズ』の面々にもその対立構図を導入してきたし、シビル・ウォー(内戦、アメリカでは特に『南北戦争』のことを指す)のシチュエーションは、血沸き肉躍る対立構図なのかもしれない。そういえば大統領選挙も、民主党と共和党の二大政党が国を二分して戦う構図だしね。
ちなみに、トランプは共和党で、南北戦争に勝利した北軍も共和党だった。つまり、もちろん16代大統領リンカーンもトランプと同じ共和党だった。その南北戦争での勝利もあり、かつては共和党が圧倒的に強かった。潮目が変わるのは31代ハーバート・フーバーから。フーバーの時代に1929年の大恐慌があり、これで人気を落とし、フランクリン・デラノ・ルーズベルトから始まる民主党が台頭することになる。
一般的に共和党が保守右派と言われている。だが、これに対して民主党のルーズベルトをリベラルとか左派でくくって見るのは非常に危険だ。歴史を見誤る原因になる。実際、ルーズベルトの社会主義的な保護主義政策(ニューディール政策)がアメリカの経済を一時的に救う反面、ドイツなどの経済破たんを引き起こし、さらには世界大戦にまで発展していったことは歴史の知るところである。ルーズベルトは極左の社会主義者で、ほぼほぼ共産主義者なのである。彼の政権内には共産党のスパイだったと判明している者がわんさかいる。これは、陰謀論とかじゃなくて、歴史的に実証されている。大東亜戦争(GHQが言うところの第二次世界大戦)後の世界を見れば、一番得をしたのがソ連であり、支那をはじめとしたアジアや東欧に共産主義国が林立することになった事実も、それを証明している。
ま、今はそんな話をする場ではないが……と言いながら、あと一言だけ。
『ハリポタ』の作者JKローリングも民主党(たぶん)だ。イギリス人のはずなのに、アメリカの永住権や選挙権でも持っているのか、ただ言っているだけなのか、先のアメリカ大統領選挙期間中、ずっとトランプ批判をしていたっけ。彼女の選挙権はともかく、少なくとも頭の中は民主党だ。間違いなく超リベラルなお花畑が広がっていると思う。『ファンタスティック・ビースト』シリーズの次作には、『ハリポタ』の魔法学校の校長先生ダンブルドアが、若かりし頃の姿で登場するらしいのだが、彼はゲイとして描かれるとのこと。ボクには、ゲイとかレズとかの性的少数派を差別する気も否定する気も排除する気もないが、ジェンダーフリーだとか男女平等だとかを錦の御旗にして振り回してまで彼らを持ち上げる気もない。ただ、『古き良き』価値観のすべてを否定し破壊することを良しとする彼らリベラルの考え方は、現行社会の崩壊を望んでいる共産党的考え方以外の何物でもないことだけは指摘しておきたい。
 あ、ちなみに、ボクはトランプを支持しているわけではない。だが、彼の実像を調べたり勉強したりしていると、新聞やテレビなどのマスコミが報じる姿との間にあまりのギャップがあることに驚かされる。
 分かりやすい一例をあげれば、『移民を締め出す』という彼の公約だ。だが、よくよく聞いてみると『違法移民を締め出す』と言っているのだ。実にまっとうなことを言っているのだ。これは、暴言への非難を浴びて最近論調を変えたとかではなく、最初からの論調らしい。つまり、リベラルに牛耳られたアメリカのマスコミと、それに同調する世界のマスコミ(もちろん日本を含む)が情報を操作し、イメージ操作をしている証拠ではないか。
 2年ほど前だったか、憲法改正論議に関してだったか、麻生元首相が「ナチスは公正な選挙から生まれた」と発言し、それをまるで日本でのナチス誕生を狙っているみたいにマスコミが騒いだことがあった。が、あれもよく聞いてみれば、いや普通に聞けば、素直に聞けば、そんなことは言っていないことがすぐに分かった。それどころか、「一時の熱に浮かれた選挙でナチスが生まれないよう、慎重に論議を進めなければいけない」と真逆のことを言っていた。朝日新聞やTBSをはじめとする左翼マスコミは、意図的に悪意を持って発言の一部を切り取り、真逆の趣旨に改ざん、いやねつ造していたのだ。『未曾有』が読めなかった人だから、ヤツが暴言や妄言を吐いたと報じても真実味がある。バカな国民は簡単に信じるだろうと見越してのねつ造記事だった。
 もう二度とマスコミには騙されないぞと思っていたにも関わらず、今回のトランプ報道に接して、またしても手もなく騙されてしまったことを痛感。オレも甘いなぁ……。

 『ファンタビ』評からは大きく外れてしまったが、まぁ映画に関しては大して書くことはないし長くなったので、これでお終い。
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君の名は。

 無駄の多い作品だ。
 大きく3つの無駄がある。
 まず一つ目だが、男女二人の人格が入れ替わる設定。これはまったく必要ない。観客を惹きつけるフックのつもりなんだろうけど、物語の核心にはまったく関係ないし、根本的なことを言ってしまうと、ない方がスッキリする。ボクは別に潔癖症ではないのだが、大林宣彦の『転校生(1982、原作『おれがあいつであいつがおれで』)』以来の積年の手垢がベットリつきまくりの設定なのである。何の予備知識もなく映画館に入ったボクとしては、この前半部分にうんざりさせられ、あやうく途中で席を立つところだった。後半から展開する彗星衝突の話は楽しめただけに非常に残念である。
 とは言え、その彗星衝突の話にしても、映画を見ながら感じていたことだが……、
乙一の作品にこんなシチュエーションの作品があった。夢とか携帯電話とか雪に書く文字とかで、異次元の人や未来の自分とコミュニケーションをとる話が、乙一の小説にいくつかあった。もう十年近くも前に読んだきりなので、あらかたのストーリーは忘れてしまったが、切なくて良い話だったことだけは覚えている。そんな乙一の設定で、充分、この映画の物語は構築できただろうし、そのほうがスッキリしたはず。
 それにそもそも、この映画の入れ替わりにはリアリティがない。もちろん、ボクはファンタジー作品に対して「そんなことはあり得ないからダメ」などと野暮なツッコミを入れるようなカタブツではない。宇宙人が出てくる話でも、タイムトラベルをする話でも、ゾンビが出てくる話でも、ボクには鷹揚に受け入れられる包容力があるつもりだ。
ここで言うリアリティとは、入れ替わったあとの本人たちのリアクションや周囲の反応にリアリティがないことを指摘しているのだ。自分の身に置き換えて考えてみてほしい。ある朝目が覚めると、そこは見知らぬ部屋の見知らぬ家の見知らぬ町なのだ。しかも自分が見知らぬ女性(あるいは男性)になっているのである。大林の『転校生』は、入れ替わった自分が目の前にいたから、まだ早々に状況が把握できる強みがあった。しかし、本作はそんな手掛かりがまったくない状況にいきなり放り込まれるのである。思春期真っ只中の男の子が女の子のオッパイ揉んで喜んだり、女の子が男の子の身体でトイレで用を足して顔を赤らめたり、なんてレベルのリアクションで済むものではないはずだ。下ネタに走りたくはないが、高校生の健康な男の子なら朝立ちだってしているはずだ。普通の女の子が、ある朝そんな身体で目が覚めたら、その瞬間にショック死したって不思議ではない。ましてや、学校に登校するなどと日常生活を進めようなどとするだろうか? そもそも、どこの誰だかわからない人の通う学校にたどり着けるハズがないではないか。やれるものならやってみろと言ってやりたい。メールや日記でお互いの状況を報告し合えるほどに現状を把握できるようになったら、いやそんなふうになる以前に、まず電話で連絡を取り合うハズではないか! などなど、あまりにもツッコミどころがありすぎて、うんざりさせられた。途中で席を立ちたくなったボクの気持ちも理解してもらいたい。

 二つ目は、これも根本的なことだが、記憶がなくなるという枷だ。と言うか、これも『博士の愛した数式』以降なのか、もしかしたら『アルジャーノンに花束を』や『レナードの朝』以降なのか、『期間限定の記憶』という設定が最近多すぎると思わないか? 世間の皆さまは、本を読まないのか? 本なんか読んでたまるかと言うのなら、いずれもドラマ化や映画化をされているし、それも見ないのか? 一晩とか一週間とか、色んなバリエーションの亜流が濫造されているのだが、見てもやっぱり忘れてしまうのか? ボクだけなのか、「またかよ」感がハンパないのは?

 そして三つめはパンチラ。メカと美少女がアニメの必須条件だとは聞き及んでいる。それなりのお色気を盛ることもサービス精神なのだとは承知している。にしても、教育委員会みたいなお堅いことは言いたかないが、まぁ、あまりにも不必要で無理クリな入れ方だったことは指摘しておきたい。

 歴代興行記録を塗り替えるほどの大ヒットを記録しているようだが、流行ものに振り回される、現代日本人の嫌ぁなポピュリズム部分を見せつけられているようで、非常に気分が悪い。もうちょっと自分の意見を持ち、過去の事例を記憶したり学んだり検証してもらいたいものだ。歴史は大切だ。この映画を手放しに持ち上げているような連中には、猛省を促したい。

ある戦争

 タリバンの攻撃に晒されるアフガニスタンの寒村で平和維持に従事するデンマーク軍。部隊長のクラウスにとって部下の命を守ることは重要な任務。しかし、地雷で吹き飛ばされる部下がいたり、その惨状を目の当たりにしてPTSDみたいになる若い兵士がいたり。ある日、パトロール中にタリバンから攻撃を受け、その若い兵士が重傷を負う。クラウスは緊急搬送用のヘリと、そのヘリが着陸する場所を確保するため、援護の空爆を要請する。ところが、空爆の要請には敵を『視認』することが要件なのだが、あまりに激しい攻撃で敵を確認する余裕がない。このままでは若い負傷兵が死んでしまうというので、クラウスは「敵を見た」ことにして空爆を要請する。その判断のおかげで若い兵士は一命を取り留めるが、空爆地点で子どもたちを含む民間人が11人死亡する。これが重大な国際法違反だとされ、クラウスは本国に強制送還され、軍事裁判にかけられる。前半のアフガニスタンから、映画の後半は軍事裁判へとチェンジする。
 この作品は、足を印象的に見せていく手法が上手い。地雷で吹き飛ばされた兵士の粉々の足、タリバンに殺された村の子どもの足、空爆で死んだ子どもの足、しかもその足は折れ曲がっている。ところどころに印象的な、ドキッとさせられる足のショットが挿入される。そして、クラウスは、寝ている自分の子どもに毛布を掛けるとき、息をしている温かい小さな足を見てしまう。クラウスも観客も、ここで胸をつぶされてしまうのだ。

 後半の軍事裁判は、実に不条理な裁判劇である。なぜなら、銃弾が飛び交う戦場で、人の盾を使う敵を相手に、民間人の被害を出さずに戦うことなど不可能であろう。バカでもなければ誰でも分かりそうなことなのだが、ポリティカル・コレクトネスを振りかざす『人権派』弁護士や検事には何も見えてこないのだ。そう。この裁判が不条理なのは、争点がポリティカル・コレクトネスだからだ。最近覚えた言葉だから、是非使いたい。もう一度言う。
『ポリティカル・コレクトネス』
である(以下、PC)。
直訳すれば『政治的に正しい』。差別はいけませんとか、表現の自由は不可侵だとか、そんな意味なのだが、そんな『ど正論』を錦の御旗にして、度を越えた権利主張に利用されることが多い。だから、マンホールがヒューマンホールに、ブラックボードがチョークボードに言い換えされたりするのはまだ序の口で、「自分たちは差別されている、差別された、だから補償しろ」という論理展開に使われる。要は被差別を生業にしている連中がよく使うヤツだ。特に、ジェンダー・フリーとかを掲げて男のいない社会の実現を目指している女たちがよく使う論理だ。
この映画でも、クラウスの罪を追及する検事は女だった。己の弁舌に酔ってエクスタシーを感じているような、まるでレンホーかミズホーのようだった。うまいキャスティングだった。おっと、こういう表現がまたポリティカル・コレクトネスに引っかかる。
 ま、PCはともかく……、
この作品がアメリカのアカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされたらしいのだが、アカデミー賞会員の方々は、この作品をどういうつもりでこの映画を見たのだろう? 東京空襲で10万人、広島長崎の原爆で36万人の民間人が計画的に殺されたはずではなかったっけ……?

 監督・脚本;トビアス・リンホルム、115分、2015年、デンマーク
プロフィール

辰之介

Author:辰之介
映画ファン歴40年。
映画やドラマを観る日本人の審美眼を真剣に憂える。

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